Mittwoch, 4. September 2013

サミール「アラブ世界におけるキリスト教徒の文化的役割」

戸田聡(訳)「サミール・ハリル・サミール:「アラブ世界におけるキリスト教徒の文化的役割」」『跡見学園女子大学人文学フォーラム』6 (2008), 79-110.

東方キリスト教研究の世界的権威である Samir が 10 年前の 2003 年にベイルートで行ったフランス語講演。それが初期キリスト教研究の戸田聡さんによって日本語訳されていました(本文はこちらのページからダウンロード可)。講演が基となっているため、種々のよりみちはありますが、基本的には古代末期から現代に至るまでのあいだに、中近東のキリスト教徒たちがたどった歴史を手短に概観するというもの。今回は備忘録もかねて、個人的に興味深かった 18 世紀までの流れをやや詳しめにまとめておきます。

ヘレニズム期の中近東(シリア・レバノン・パレスチナ・メソポタミア・エジプト)には、哲学・科学・法学・神学といった諸学の中心地となる、さまざまな都市が発展していました。代表的なものとしては、アレクサンドリア、ベリュトゥス(現在のベイルート)、アンティオキア、エデッサ、ニシビスなどが挙げられ、人々は学問を修めるべく、これらの都市へと遠方からはるばるやって来たといいます。なかでもアレクサンドリアは数学・天文学・哲学の中心地、ベリュトゥスは法学の中心地だったようです。なおこの時代のキリスト教徒は、シリア語話者であれコプト語話者であれ、大抵コイネーであるギリシア語も併用できる二言語話者でした。ところがそれから時代を下り5 世紀に入ると、431 年にはエフェソス公会議、451 年にはカルケドン公会議が開かれ、これらをきっかけにいわゆる「東方諸教会」がローマ帝国内の「帝国教会」から分裂します。重要なのは、この神学教義上の分裂が文化面での分裂という側面をもその背景に隠し持っていたという点です。つまり地域文化(シリア語・コプト語・アルメニア語による)の勃興が、支配的・侵略的文化(ギリシア語による)に対して異議申し立てを行ったわけです。

こうして 5 世紀以後、とりわけ 6-7 世紀に入ると、ジュンディーシャープールなどの都市を中心に、ギリシア語以外の言語で学問をする土壌が育まれていきます。なかでも大きな役割を担ったのがシリア語です。医学・数学・哲学・神学といったさまざまな学問分野のギリシア語著作が、当時この地域の民衆語の 1 つだったシリア語へと大々的に翻訳されていきました(ちなみにシリア語以外にも、アルメニア語とグルジア語へは相当程度の翻訳がなされ、さらにそれらよりも規模は劣るもののコプト語とエチオピア語へも一定程度の翻訳はなされていたとのこと)。医学ではヒポクラテス(前 5 世紀)とガレノス(後 2 世紀)のほぼすべての著作が、哲学では主としてアリストテレスの諸著作とそれよりはやや劣るもののプラトンと新プラトン派の諸著作が続々とギリシア語から翻訳されていったといいます。

* なおここで著者はアリストテレスとプラトンの諸著作のうち、どの程度がこの時点でシリア語へと翻訳されていたのか明言していませんが、以前読んだ高橋英海先生の「翻訳と文化間関係:シリア語とその周辺から」(2008 年)および「イスラームにおけるアリストテレス受容」(2011 年)によると、アリストテレスに関しては(護教論的な目的から)論理学書の翻訳が中心だったようです。ただし、ここでふたたび高橋論文からの補足ですが、ギリシア語からシリア語への翻訳はすでに紀元後2 世紀後半には新約聖書の翻訳というかたちではじまっていました。シリア語は3-4 世紀頃にはギリシア語からの圧倒的影響下で新たな文語として成立しており、ペシッタ訳も400 年頃にはほぼ現在知られているかたちで完成していたとのこと。そして重要なのは、これにつづく6-7 世紀、シリア語を用いた学者たちが旧約部分のシリア語訳を七十人訳を模範としてギリシア語訳に近づけようと試みており、さらにこれと同時期に進められた先述の聖書以外の翻訳においても、シリア語自体を見ただけでは一見意味不明の、相当程度ギリシア語を模した文体で翻訳が行われていたという点です。これらの点から察するかぎりでは、上の段落で著者が指摘したような「支配的・侵略的文化に対する地域文化の異議申し立て」という側面も(見逃してはならないにせよ)、あまり過度に強調しすぎるのも不適切なように思えます。

この時期のギリシア語からシリア語への翻訳運動の担い手となったのが、レーシュアイナーのセルギオス(536 年没)。彼は「レーシュ・アイナーの医師団長」とも呼ばれる有名な医師であり、ガレノスの医学書の翻訳を数多く手がけた他に、擬デュオニシオス・アレオパギテスの著作群もシリア語に訳しています。アリストテレス哲学関連では、『フィロテオス宛範疇論註解』、テオドロスなる人物に宛てられた『アリストテレス哲学の目的について』、そして『類、種および個について』、『自然的証明』、『型について』などと名づけられた諸論考を残しているとのこと(高橋[2011 年])。

彼の仕事を受け継ぐかたちで、ムスリム治下のバグダードにおいてさらなる翻訳活動を推し進めたのが、フナイン・イブン=イスハーク(873 年没)です。彼はヒポクラテスとガレノスの著作を全部で96 点翻訳し、さらにディオスコリデスやプラトン、アリストテレスの諸著作もシリア語・アラビア語へと翻訳しました(ちなみにフナインがアラビア語で執筆した医学書に関しては、矢口さんによる日本語訳があります)。彼とその息子であるイスハーク・イブン=フナイン(910 年没)、甥のフバイシュ・イブン=ハサン(860 年頃活躍)、さらにクスター・イブン=ルーカー(912 年頃没)らを中心として、このアッバース朝下の翻訳運動は頂点を迎えます。数学・天文学・神話・哲学・医学・薬学(そして著者は挙げていませんが、論理学も含む)といった諸学の翻訳と、さらにその際の必要に応じたギリシア語・シリア語・ペルシア語などからの借用を通じて、キリスト教徒たちはムハンマドの時代には学術語として貧困だったアラビア語を、学術使用に耐えうるレベルにまで徐々に洗練させていきます。

こうしてヘレニズム文化の遺産がアラビア語へと移入されていくなかで、その担い手は徐々にキリスト教徒からイスラム教徒へと拡大していき、古代ギリシアの学術はキリスト教徒・イスラム教徒に関係なく、広く共有されるようになっていきます。例えば有名なファーラービー(950 年没)は3 人のネストリウス派キリスト教徒(イブラーヒーム・マルワズィー[* 年没]、ヤフヤー・イブン=ハイラーン[* 年没]、アブー=ビシュル・マッター・イブン=ユーヌス[940 年没])に師事しながら、自らはイスラム教徒でした。他方で彼の弟子であったヤフヤー・イブン=アディー(974 年没)はシリア正教会のキリスト教徒でしたが、4 人のキリスト教徒の弟子(イブン=ズルア[1008 年没]、イブン=スワール[1017 年没]、イブン=サムフ[1027 年没]、イブン=ユムン[10 世紀末活躍])以外に、6 人のイスラム教徒の弟子を抱えていたといいます。そして何よりも、彼自身が生活のためにタバリー(923 年没)によるコーラン大註釈を 2 度も書写したと言われています。

しかしながらこうした学問の黄金時代は、アッバース朝崩壊とともに終焉を迎えます。フラグの襲撃によってバグダードが陥落(1258 年没)して以降は、途中、バフリー・マムルーク朝(1250-1381 年)とブルジー・マムルーク朝(1382-1516 年)によって一時再興されはしたものの、それも束の間、最終的にアラブ文化はオスマン朝によるアラブ世界征服のなかで潰えてしまいます。結局、黄金期以降、イスラム教徒の側で見るべき学問的成果と言えば、13-14 世紀のイブン=ハルドゥーン(1406 年没)と15 世紀のスユーティー(1505 年没)による諸著作のみ。キリスト教徒の側でも、こうした学問的凋落はすでに 11 世紀にははじまっていて、具体的に言うと、彼らはそれまでに生み出された文化的遺産をただ単純にまとめた、いわゆる「百科全書」の作成に終始していたのだとか。ネストリウス派のアムル・イブン=マッターの『塔』、シリア正教徒のヤフヤー・イブン=ジャリールの『手引き』などが、それ。そしてこうした流れは、13-14 世紀のコプト教徒のもとで頂点に達します。ムウタマルッダウラ・イブン=アッサール(* 年没)のコプト語版『神学大全』(=トマスの『神学大全』のコプト語訳?)、ユーハンナー・イブン=サッバー(* 年没)の『高価な真珠』、そしてシャムスッリヤーサ・バラカート・イブン=カバル(1324 年没)の『闇の中』。こうした百科全書的諸著作は、キリスト教的アラブ文化が次第に消滅しつつあることをキリスト教徒自らが自覚し、それを後代に残すべくまとめあげられたものだと、著者は言います。いずれにしても、このようにイスラム教徒の側でもキリスト教徒の側でも、13 世紀以降の時代はそれ以前とは打って変わり、もはやアラブ文化はあまり見るべきもののない時代を迎えるのだそうです

* ただしここでの著者の歴史観は、イルハン朝統治期とオスマン朝統治期という2 つの非アラブ勢力下での学芸振興を不当に看過したものと言えます。例えば有名なところでは、イルハン朝期にはマラーガ(現在のアゼルバイジャン領)に天文観測所が設立されました。この観測所には、トゥースィー(1274 年没)をはじめとし、カーティビー(1277 年没)やクトゥブッディーン・ラーズィー(1365 年没)、アブハリー(1264 年没)といったさまざまな哲学者・科学者が集められ、この地を中心として自然科学・自然哲学研究が大いに振興されました。「マラーガ・サークル」と呼ばれるこのサークルには、哲学者・科学者以外にも、アフダルッディーン・カーシャーニー(1213/4-68 年のあいだに没)やシャムスッディーン・キーシー(1296 年没)といった神秘主義の伝統を引く人物も出入りしていたようで、その実態解明はこれからの仕事ですが、少なくともこのサークルを中心に著された諸著作は隣接地域に住むシリア正教徒によってシリア語訳されたり、あるいはビザンツの学者によってギリシア語訳されたりしながら、受容されていたのだそうです。シリア語文化圏において圧倒的な重要性を有するバルヘブラエウス(1286 年没)と彼を中心に興ったいわゆる「シリア語ルネサンス」も、このサークルで生み出された知を享受していました、たしか。さらにオスマン朝期にも学芸は必ずしも凋落していたとは言えません。この分野の研究は最近はじまったばかりなので、確たることはまだ言えませんが、例えばメフメト 2 世治下の同朝は征服地ビザンツの文化を吸収しようと、大々的に翻訳運動を振興したということがわかっています(例えばこちらの記事を参照)。このような側面も含めたオスマン朝期の科学史に関してはFazlıoğlu による興味深い論文が、論理学史に関してはRouayheb による見事な整理がすでに明らかにしています。これらの点からも、イルハン朝・オスマン朝という非アラブ勢力下での学芸振興を一顧だにしないという著者の研究姿勢は、いまでは若干古臭く見えてしまう点に注意が必要です。

時を同じくして(と、ここで著者の視点は同時期[15-16 世紀]の欧州地域に住むキリスト教徒へと向けられます)、欧州では 2 つの大きな事件が起こっていました。1 つはルネサンス、そしてもう 1 つは宗教改革です。カトリック陣営とプロテスタント陣営との分裂は、1512 年のラテラノ公会議、1517 年のルター(1546 年没)による教会糾弾などを経て、およそ修復不可能なものとなります。そして結果、カトリック陣営は 1545-63 年のトリエント公会議において、自らの教義・制度を大幅に再検討し、カトリック勢力の再興を目指していくことになります。ここで決定的に重要な役割を担ったのが、教皇グレゴリウス 13 世(1572-85 年)だと、著者は言います。グレゴリウス 13 世は当時のイタリア・ルネサンスを利用して、ローマを知の一大中心地に造りあげようと計画しました。彼はまずドミニコ会神学院をアンゲリクムという名で大学に格上げします。そしてさらに(こちらの方がはるかに重要なのだそうですが)イグナチウス・デ・ロヨラが 1551 年に創立したイエズス会のローマ神学院を、1585 年、グレゴリアーヌムという名でふたたび大学へと格上げ。その流れで一般にイエズス会士のみにかぎられていた多くの神学院を再編、もしくは新たに設立し(ドイツ神学院・ハンガリー神学院・イギリス神学院など)、教育した司祭たちをプロテスタント諸国へと送りだすという戦略に着手しました。また彼は正教会のことも念頭に置き、ロシア宮廷にまでおよぶほどの活発な外交活動を展開、ギリシア神学院も設立したといいます。結果、欧州の聖職者エリートは皆、ローマで教育を受けることを志すようになり、ローマは彼の思惑どおり、一大知的中心地へと発展しました。

こうしたプロジェクトの一環として、グレゴリウス 13 世はさらに中近東地域のキリスト教徒へも目を向けるようになります。当時イタリアには、ラビの名家出身であるアレクサンドリア出のユダヤ人が居住していました。カトリックに改宗してイエズス会へ入会し、ジャンバッティスタ・エリアーノという名を得ていた彼は、まず 1561 年にエジプトへと派遣され、カトリックとの合同をめぐってコプト教会と交渉をします。これは結局失敗に終わり、1563 年、彼はヴェネチアへと帰還し、1577 年までローマ神学院でヘブライ語とアラビア語を教えましたなおエリアーノはその後さらに 1582-85 年、エジプトへと派遣され、再度コプト教会と交渉を行いましたが、これも結局、決裂に終わったのだとか。ちなみに彼はこれら以外にシリア語もできたそうですが、実際に学院で教えていたのはヘブライ語とアラビア語のみのようです。その後、今度は 1578-79 年と 1580-82  年の二度にわたって、レバノンへ派遣。この地ですでにカトリックへと帰一していたマロン派キリスト教徒と出会います。彼はさらに北上してキプロスにも赴きますが、同地でもギリシア語を話し、さらにアラビア語とシリア語も少し話すマロン派の共同体と出くわしました。

このようななかで、彼の頭に 1 つの計画が浮かびあがります。すなわちこの中東における唯一のカトリック教会を手助けすることで、カトリックが東方でも勢力を伸長していくためのチャンネルとしようという計画です。彼はローマに帰還するや、教皇にマロン派神学院の設立をかけあいました。これをグレゴリウス 13 世も(紆余曲折はあったようですが)最終的には受け入れ、1584 年、ついにローマにマロン派の神学院が設立されることとなります。レバノン北部の山岳地帯とキプロスの両地域から、まだ青年期の若者たちがローマへと集められ、芸術・科学のあらゆる分野についての手ほどきが与えられました。数学・科学・歴史・地理学・哲学・神学・倫理学・法学・聖書解釈といったあらゆる学問を収めながら、ラテン語・ヘブライ語・ギリシア語にくわえ、イタリア語・フランス語(ときにはスペイン語)などの近代諸語も学びつつ、さらに不十分だったシリア語と古典アラビア語の知識にも磨きをかける。こうした生活のなかで、彼らは当時の文化的中心地であるこのイタリアで、徐々に「ルネサンス」の文化に目覚めていきました。

ローマから帰還した多くのマロン派司祭たちは、今度は自分たちがローマで学んだことを郷里の住民らに対して伝えようと努めはじめます。敬神・宣教の新たなかたちを導入し、説教を刷新し、そして修道生活を(西欧の修道生活というモデルに合わせて)ふたたび活発化することで、彼らは修道院を霊的・文化的発信の中心地としていきます。そして彼らは次第に、自分たちがローマで読んだ本をラテン語(ときにはスペイン語やイタリア語)からアラビア語へと翻訳するようになります(ちなみにマロン派キリスト教徒の使うアラビア語は、この頃もアラビア文字ではなく、シリア文字を用いたガルシューニー体が主だったとのこと)。具体的には、聖書をはじめとして、聖書に対するフランドル出身のイエズス会士コルネリウス・ア・ラピデ([蘭?]ファン・デン・ステーン / [亜]ハジャリー)による膨大な註釈、そしてさらにトマス・アクィナスの『神学大全』のような重要著作などが、すべてラテン語からアラビア語へ翻訳されたのだといいます。くわえてこれと並行して、17 世紀の第2 四半世紀になると、アラビア語の印刷所を導入しようという動きが現れてきます。最初にアラビア語の本が印刷されたのは、レバノンのクズハイヤー(ここでも文字はアラビア文字ではなく、ガルシューニー)。次いで 17 世紀末になると、マトゥンのフンシャーラにある聖洗礼者ヨハネ修道院(カトリック・メルキト派の修道院)でも、アラビア語の印刷所が作られ(こちらはアラビア文字を印刷?)、1671 年には初の聖書全訳(ラテン語・アラビア語対訳)が完成、印刷されることとなります(なおこの聖書全訳プロジェクトには東欧・西欧からも多くの学者たちが参画し、半世紀以上の月日をかけて、ようやく実現したのだとか)。

こうして 17 世紀末頃から、今度は宗教的領域(神学・倫理・典礼・霊性など)と世俗的領域(哲学・歴史・地理学・文学・詩・医学・天文学など)の双方で、著述活動がはじまります。その中心にいたのが、マロン派司教のゲルマーノス・ファルハート(1732 年没)と呼ばれる人物です。彼は当時のキリスト教徒住民のあいだでアラビア語のレベルが低く落ち込んでいたことを憂慮し、まず当時の有名なイスラム教徒のシャイフであったスライマーン・ナフウィーの学校へと通い、アラビア語を完全に習得します。その後、今度は福音書をベースとしたアラビア語文法を著し、次いで福音書から例を引いたアラビア語文体論の教科書も執筆しました。さらに彼はキリスト教徒の文人チーム(アルメニア人のメケルディグ・カーシフ・イブン=アブディッラー・ムハッラー[* 年没]や、正教徒のスライマーン・アスワド[* 年没]、マロン派のアブドゥッラー・カラーアリー[* 年没]らからなる)を組織し、宗教的な色彩をもつ詩を古典アラビア語で詠んだり、イスラム教に対してキリスト教を擁護する護教論を著したりしたといいます(あくまで護教論であって、論争的著作ではないことに注意)。このように 15-16 世紀のローマで教育を受けたマロン派キリスト教徒たちを中心として、17-18 世紀、東方キリスト教徒たちのあいだで一種の古典アラビア語の「ルネサンス」運動が興ることとなったのです。

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