Mittwoch, 11. April 2012

オスマン朝期におけるギリシア語・ラテン語文書翻訳活動

Gutas, D., Greek Thought, Arabic Culture: The Graeco-Arabic Translation Movement in Baghdad and Early 'Abbasid Society (2nd-4th/8th-10th Centuries), London: Routledge, 1998, 166-75 [II.7.3: The Legacy to Posterity: Arabic Philosophy and Science and the Myth of ''Islamic'' Opposition to the Greek Sciences].
アッバース朝期における学術文献の翻訳活動を主題的に扱った、かの有名な Gutas 本から、その後代に対する影響を簡潔に指摘した箇所を読みました。議論の全体としての流れは、Goldziher の古典的な論文 “Stellung der alten islamischen Orthodoxie zu den antiken Wissenschaften” (1916) への批判となっていて、「『正統派』イスラムと科学的・合理的思考は相反する」とする Goldziher テーゼが具体例を挙げつつ斥けられていきます。今回はそのなかで若干の言及がなされているオスマン朝期におけるギリシア語・ラテン語文書(特に前者)の翻訳活動について、まとめておきます。
学術文献のアラビア語への翻訳活動はアッバース朝初期のそれが有名ですが、15-18 世紀のオスマン朝においても、さまざまな言語で書かれた文書がアラビア語に(そしてときにオスマン語に)翻訳されていました。なかでも中心となっていたのは、やはりギリシア語・ラテン語文書の翻訳であり、有名な歴史家・図書目録作成者であるハーッジー・ハリーファ(1657 年没)や、彼の同時代人フサイン・ヘザールフェンヌ(1678/9 年没)はこれら二言語で書かれた資料を執筆のためにアラビア語に翻訳させていたのだそうです。
こうしたオスマン朝期における学術文献の翻訳活動において最も重要な要素となったのが、「征服者」(fatih)メフメト 2 世(1451-81 年統治)による文化普遍主義、ならびに彼のギリシアの学芸に対する関心です。メフメト 2 世は自らのことをアレクサンドロス大王になぞらえていたらしく、宮廷内では(ときに私的利用を目的として)数々のギリシア語写本を書写させていました。具体的には、アリアヌス『アレクサンドロス大王の遠征』や、トマス・アクィナス『対異教徒大全』のギリシア語訳(デメトリオス・キュドネス[1397/8 年没]による)などが書写されていたのだとか。また彼はプトレマイオス『地理学』や、ゲミストス・プレトン(1452 年没)『カルデア人の神託』などのアラビア語訳も作成させていたのだそうです(前者はトレビゾントのゲオルギオス・アミルトゼス[1470 年没]による)。ただし彼はアヴェロエスによるガザーリー論駁(『矛盾の矛盾』)を再論駁する、いわば「アヴェロエス論駁コンテスト」などというものも開催しています(優勝者はホージャ・ザーデ[1488 年没;GAL II, 230])。この論駁がどのような観点からなされていたのかがわからない限り確たることは言えませんが、アヴェロエス的な哲学説よりもガザーリー的な神学説が持ち上げられている可能性も十分あり(現に彼は存在一性論者の一人でもあるジャーミー[1492 年没]に『高貴な真珠』を執筆させ、神学・哲学・神秘主義が主張するそれぞれの見解を調停させてもいます)、ここからメフメト 2 世の上記のような態度も、一見しただけでギリシア文化への「傾倒」と捉えてしまってはいけないように思います。
時を下って 18 世紀に入っても、こうしたギリシア文化への関心は止みません。アフメト 3 世(1703-30 年統治)治世下では、大宰相イブラーヒーム・パシャ(1730 年没)の後援を得て、アスアド・ヤンヤーウィー(1722 年没)が『自然学』などのアリストテレス諸著作をアラビア語に翻訳し、さらにオルガノンに対しては註解も行っています。また彼以外にも、コンスタンティノープル総主教庁の付属アカデミー校長だったブルサのニコラオス・クリティアス(1767 年没)が、アリストテレス主義者テオフィロス・コリュダレオス(1646 年没)による論理学著作をアラビア語(あるいはオスマン語)に翻訳しています。
このように 15-18 世紀のオスマン朝では、さまざまなギリシア語文書がアラビア語に翻訳されていました。興味深いのは、一般にアヴィセンナ以降のアラビア哲学史において忘れ去られていくとされるアリストテレス註解が、オスマン朝においては部分的にせよ命脈を保っているということ、そして(こちらに関しては当たり前ではあるのですが)アラビア語版の翻訳が成立するまでに、ビザンツからの影響が相当程度介在しているようだということです。特に後者はイスラム学研究者がほとんど目配せしきれていない点ですが、ゲミストス・プレトンがアラビアにおよぼした影響とか、そういった問題を論じる余地がもしかしたらあるのかもしれません。考えるだけで楽しそうです。

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